三田の歴史と文化

第51回 伊勢講は幕藩体制下での自治的団体だったのか?

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江戸時代の三田には、伊勢講はじめ、八幡講、行者講、歌でも有名な金毘羅さん参りをする講や仏教系の講等、
様々な地域に根差した参拝グループがありました。
中でも各地にしっかりした組織を持ち、
全国から多くの神宮参拝者が伊勢に集まるベースとなったのが伊勢講でした。

今回のテーマは、封建的圧迫の下で息づいていた自主団体のことですが、
伊勢神宮には組織にとらわれない求心力も存在しました。
御蔭(おかげ)参りと言う現象が、1650、1705、1771、1830の各年(式年遷宮の後、他の祝い事と重なる時等)に発生し、
ひと月の間に228万人が参拝した記録もあるようです。
ぬけまいりと称し、妻は夫の許可を得ず、奉公人は主人に無断で、貴賤・貧富の別なく参宮の旅に出ました。
道中では豊かな人々から、食べ物・銭・風呂・宿が施されました。
このように伊勢参りには幕藩権力の規制を離れた側面がありました。

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参宮にはブームを起こす広がりと根深さがあり、伊勢講は持続的な組織でした。
各神社はそれぞれの主祭神がありますが、多くの場合、他に複数の神々が合祀されています。
伊勢の大神は講員によって大切に祀られました。
写真①は高売布神社にある伊勢への遥拝所です。多くの伊勢講の間に交流があったことが伝わってくる遺跡もあります。
国道176号線沿いに巨大な石灯篭(写真②)があり、「太神宮」と彫られています。
寄贈者は三田市北部の個人名が多いですが、尼寺(にんじ)村伊勢講中もあります。
篠山市南部でも、当野(とうの)村伊勢講中等も刻まれ、郡や藩を超えた交流も推定できます。

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伊勢講では当番の家の床の間に写真③の軸を掲げ、村人全員で参拝してから宴会となりました。
宴の時間は長かったので、村寄合では発言しにくかった中小の農民も、遠慮がちではあれ、
有力者に意見を述べる機会も在ったのではないでしょうか。
参拝は総参りと代表参りの場合がありました。

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④の写真は、村の大池の上手で共有山に囲まれた中に、「伊勢講田」という共有水田がありました。
村人の耕作権と年貢負担を記した「検地帳」には掲載しにくい形態ですし、
もし藩に聞こえても、「伊勢神宮にお参りしお供えする為のお米でございます」と言えば、
お叱りは軽減されたのではないでしょうか。

写真・文/勝本淳弘(元小学校校長)

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