今週のとっておきの1本は、NY・ブルックリンを舞台に、プロコル・ハルムの名曲「青い影」の旋律が彩る『あの歌を憶えている』です。忘れたい記憶を抱え続ける女と、忘れたくない記憶を失ってゆく男。そんなふたりが新たな人生と希望を見つけるまでを描いたヒューマンドラマ。号泣だけが感動ではない、じんわり心に沁みる物語です。
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© DONDE QUEMA EL SOL S.A.P.I. DE C.V. 2023
~シネマエッセイ~
1967年の冬、11歳の私は家族とともに生まれて初めて海を渡った。香川県の高松港から岡山県の宇野港を結ぶ宇高連絡船で瀬戸内海という小さな海を渡ったのだ。朝まだ暗いうちに高知の家を出てバスと汽車を乗り継ぎ、高松駅での乗り換えでは船の座席を取るためにみんなが走り出し、出遅れて席のない私たちは仕方なしにデッキに上がった。12月の瀬戸内の風はひんやりと冷たく、穏やかな海には小さな島々が浮かんでいた。大きな白波が打ち寄せ水平線がはるか遠くにあった高知の太平洋とは違い、瀬戸内海は凪いでいて船はほとんど揺れず、すぐに対岸が見えてきた。「宇野に着いたら、また汽車に乗る。大阪に着く頃には日が暮れてるやろ」デッキの風に吹かれながら父が言った。
私たち家族は、これから大都会の大阪で暮らすのだ。「本屋の一軒もないような田舎では、子どもたちの将来は期待できない」と、父は転職を決断したという。大阪の社宅ってどんなだろう? 都会の学校で友達できるかな? 勉強はついていける? そんなふうに、希望と不安を交互に思い浮かべているうちに連絡船は宇野港に着いた。船を下りた途端に、また乗客がみんな血相を変えて走り出したので、私たちもつられて走り出す。誰も彼も全速力で、今度は列車の席取りだ。慣れない私たちはやはり席が取れず、大阪までの長い時間を通路に敷いた新聞紙の上で過ごした。何時間列車に揺られただろう。大阪駅に着くと、父の言ったとおり日はとっぷりと暮れて周囲は真っ暗だった。
一夜明けて、社宅の窓を開けると周囲には田んぼが広がっている。大阪なのに、新しい住まいはビルではなく田んぼに囲まれていることに私と妹はちょっと落胆した。田んぼの真ん中にコンクリートの高架が視界いっぱいに長く続いていた。「あれは何?」私が父に問いかけたその時、高架を凄いスピードで白く長いものが走り抜けていった。「新幹線や!」いつも穏やかな父が少し興奮して言う。「新幹線⁈」私と妹は、驚いて顔を見合せた。世界一速いという新幹線が社宅の窓から見られる! 新生活への不安がこの瞬間に吹き飛んだ気がした。私の未来は、新幹線の未来のように明るいぞ! 私は心の中でそう思った。1967年のあの冬、新生活への希望と不安を抱いて乗った宇高連絡船と、その不安だけを吹き飛ばすように目の前を走り抜けていった新幹線のことを、私は一生忘れないだろう。
映画『あの歌を憶えている』の中で何度も流れる「青い影」という曲は、1967年にイギリスのロックバンド、プロコル・ハルムが発表したデビュー曲だ。当時11歳だった私は知る由もないが、大人になって耳にした時、全世界で1000万枚以上を売り上げたというその大ヒット曲の、どこか物悲しいメロディに心惹かれた記憶はある。リリースから半世紀を経た今も色褪せないその旋律は、この映画の中で若年性認知症の男性にずっと寄り添っているのだ。観終わった後もなお心に残る名曲である。
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© DONDE QUEMA EL SOL S.A.P.I. DE C.V. 2023
【ストーリー】
ソーシャルワーカーとして他人を助ける仕事に奮闘し、13 歳の娘とブルックリンに暮らすシングルマザーのシルヴィア。若年性認知症による記憶障害を抱え、弟と姪からの世話を受けながら生活しているソール。それまでは何の接点もなかったそんなふたりが、高校の同窓会で出会う。様々な出来事が重なり合い、ソールの姪からの依頼で、彼の家族が出かけている間、シルヴィアがソールの面倒を見ることになる。ソールの穏やかで優しい人柄と、抗えない運命を与えられた哀しみに触れる中で、彼に惹かれていくシルヴィア。だが、彼女もまた過去の傷を秘めていた──
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© DONDE QUEMA EL SOL S.A.P.I. DE C.V. 2023
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© DONDE QUEMA EL SOL S.A.P.I. DE C.V. 2023
監督・脚本:ミシェル・フランコ
出演:ジェシカ・チャステイン、ピーター・サースガード、メリット・ウェヴァー、ブルック・ティンバー、エルシー・フィッシャー、ジェシカ・ハーパー
2023 年/103 分/アメリカ・メキシコ/配給・宣伝:セテラ・インターナショナル
https://www.memory-movie-jp.com/
2/21( 金 )よ り 新宿ピカデリー、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほか全国公開