「水谷幸志のジャズの肖像画よもやま話」では、ハニーFMのフリーペーパー「HONEY」vol.12〜32に掲載されていた水谷さんのコラム「水谷幸志のジャズの肖像画」では書ききれなかったエピソードや時代背景などをゆったりと振り返りながらお送りします(再生ボタン▶を押すと番組が始まります)
今回は、テナー・サックス奏者スタン・ゲッツを特集した「HONEY vol.21 春号」を振り返ります。当時のジャズシーンとスタン・ゲッツの初期、中期、後期の作品を紹介しながら、スタン・ゲッツの魅力に迫りました。
当時のコラムと合わせてお楽しみください。
「HONEY」vol.21
天性のメロディスト、香り立つクールな音色、ザ・サウンドと称されたテナー奏者といえばスタン・ゲッツに違いない。1927年2月2日、スタン・ゲッツは、フィラデルフィアで生まれ、ニューヨークのブロンクスで育った。両親はともにロシヤ系ユダヤ人で暮らしは貧しかったが、音楽的な環境には恵まれていた。そしてゲッツは正に天才児だった。12才の時、ジュニア・ハイスクールのオーケストラに入り、生徒の誰もが弾けないコントラバスをたった2週間でマスターした。そのオーケストラの課題曲はモーツァルトが書いた最初の交響曲「第1番 変ホ長調 K.16」だった。ハイスクールではクラリネットとサックスを学び、バスーンなど色々なリード楽器を自在に操ったという。母の望みは、奨学金を貰いジュリアード音楽院で作曲を学ばせることだったが、ゲッツはジャズの道を歩むはことになる。
キャリアの始まりは16才の時からだ。先ずは、ジャック・ティーガーデン楽団でタフなプロの洗礼を受ける。ティーガーデンは、未だ少年の面影を残すゲッツに多くの影響を及ぼし、お蔭でゲッツは美しいメロディを紡ぎ出すスキルを学ぶが、ドラッグや酒といった悪癖も身につけることになる。後にゲッツは「僕はティーガーデンから音楽の事よりも酒をたくさん飲むことだけはしっかりと教えられたよ」と述懐している。その後、スタン・ケントン、ベニー・グットマン、ウディ・ハーマンといった名門バンドを渡り歩き、芸術的な資質に一層の磨きをかけ若くしてスター・プレイヤーとしてその名を成すが、ゲッツの人柄については概して評判は良くない。例えば、ハーマン時代の盟友ズート・シムズの有名な逸話「スタンはまったくいい奴ら(a nice bunch of guys)だよね」と・・・あの寡黙なズートの台詞だけに、どうもゲッツは鼻持ちならない人物だったようだ。そのゲッツのキャリアは50年余におよび、初期、中期、後期とそれぞれの時代毎にハイライトが用意され、どの時代を聴いても期待を裏切られることはまず無いだろう。でも、ゲッツを聴くなら、儚げで、リリカルな美意識に満ちた初期のクールなゲッツに限る。それらはプレスティジ盤の「スタン・ゲッツ・カルテット」49、50年(録)や、ルースト盤の「ザ・サウンド」50、51年(録) などで味わえる。どれもが3分にも満たないほん短い曲ばかりだが、聴く者に“3分間の芸術”の潔さ、尊さを教えてくれる。
他に好きと言うよりは気にかかる一枚がある。それはクレフ盤の「ウエスト・コースト・ジャズ」55年8月(録)である。若いアンディ・ウォーホルに影響を与えたデヴィッド・ストーン・マーチンがジャケットを担当し、「ルーズな青いパンツ、裸足の傍らに脱ぎ捨てられた靴、床に散らばった鮮やかな小片の紙・・・」がサラッと描かれている。そのB面の「サマー・タイム」を聴きながらジャケを眺めていると、ウエスト・コートの青い空よりもどこか危うさを感じる。そして朦朧と陶酔したゲッツが奏でる気だるい「サマー・タイム」に、私も、ずる、ずると底知れぬ淵に沈み込んでいく。
【番組で紹介したアルバム】※一部となります