今週は、犬が被告という前代未聞の実話から着想を得た法廷コメディ『犬の裁判』をご紹介しましょう。被告の犬コスモスを演じたのは、調教された保護犬コディ。彼は第77回カンヌ国際映画祭で「パルム・ドッグ賞」に輝きました。人間と動物の関係の難しさをあらためて考えさせられる映画です。
【シネマエッセイ】
20年ほど前の、寒い冬の夜。私が風呂から上がると、いつの間に帰宅したのか夫が洗面台に顔をうずめていた。気分でも悪いのかと思い「どうしたの?」と声をかけて、息をのんだ。白い洗面台のシンクが真っ赤に染まっている。夫の顔の真ん中からものすごい勢いで血がほとばしり落ちている。「タラに噛まれた」。夫は涙声で答えた。タラというのは当時の我が家の愛犬だ。黒のラブラドールで、どちらかというと小柄な、そしてかなり臆病な女の子。「まさか、タラが……」。タラは、おやつを与える私の指をどさくさに紛れて軽く噛むことはあるが、それは私を自分より下位だと思っているからで、群れのリーダーである夫を噛むことはあり得ない。いや、あってはならない。夫が言うには、酔っぱらって帰宅し、寝ている彼女を無理やり起こし、強烈なハグを何度も繰り返したらしい。「やめて」のサインである唸り声を上げているにもかかわらず……だ。あまりのしつこさに、ついにタラが最終手段に訴え、自分を抱きしめて離さない酒臭い飼い主の鼻に噛みついたというのがことの顛末だった。噛まれたのは左の小鼻。小鼻の内から外から血が滝のように流れている。どうやらタラの牙は鼻の肉を貫通したようだ。「救急車を呼ぼうか?」「あほ! 飼い犬に噛まれたくらいで救急車呼べるか!」……私が憶えているのは、そこまでである。血に弱い私は気絶したのだった。その後、意識を取り戻した私の目に最初に飛び込んできたのは、「やってしまった」ことの重大さにうなだれているタラの姿だった。
「飼い犬に手を噛まれる」ということわざがあるが、鼻を噛まれたとなると少し間が抜けた感がある。滑稽と言ってもいい。鼻に穴があき血まみれになった夫、その血を見て気絶した妻、後悔の念にさいなまれる犬。わが家にとって強烈に忘れられない出来事であった。ちなみに、夫と犬のタラとの和解までには、3日ほどかかったと記憶している。とはいえ、噛みついたのが飼い主だったからタラはお咎めなしとなったが、これが他人に噛みついていたとしたら……想像するだけでゾッとする。たとえ犬に相応の理屈があったとしても。
映画『犬の裁判』のコスモスという犬は、3人に噛みつき「安楽死」を言い渡されていた。
その弁護を頼まれたのが主人公のアヴリルという敏腕ではない弁護士。犬が被告になるという素っ頓狂な設定なので、真面目なはずの裁判もなにかと笑わせてくれる。しかし、笑って終わりの単なるコメディではないことはラストでわかるのだ。犬の理屈とヒトの理屈は永遠に噛み合わないのだろうか?
負け裁判ばかりで事務所から解雇寸前の弁護士アヴリル。ある男から、かけがえのない伴侶で絶望的な状況にある飼い犬コスモスの弁護を依頼される。3人の人間に噛みついたコスモスには安楽死という運命が待ち受けていた。アヴリルは断り切れず、またも勝ち目のない弁護をするという不条理に飛び込んでしまう。犬の命がかかった裁判が、にぎやかにときにコミカルに展開する。人間と動物との関係に疑問を投げかける、実話に基づいた法廷コメディ。
監督:レティシア・ドッシュ
出演:レティシア・ドッシュ 犬のコディ フランソワ・ダミアン ジャン・パスカル・ザディ アンヌ・ドルヴァル ほか
2024年製作/81分/スイス・フランス合作/配給:オンリー・ハーツ
http://kodi.onlyhearts.co.jp/
5月30日から全国順次公開中
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