今週は、老人文学の傑作と言われる筒井康隆の小説を、吉田大八監督が映画化した『敵』という作品をご紹介します。俳優歴50年を迎える長塚京三さんが12年ぶりの映画主演。平穏な暮らしのなかに突然現れ、じわりと近づいてくる「敵」とは何か? 全ての人に等しく訪れるであろう「敵」を見事なまでに映し出し、人生最期をどう締めくくるかを問う人間ドラマです。
~シネマエッセイ~
「夜間飛行」と聞いて、あるいはその文字を見て何を思い浮かべるだろうか。
私の脳裏に最初に浮かんだのは、香水である。フランスの香水メーカー・ゲランのホームページを覗くと、香水「夜間飛行」についての説明に、《フランスの有名な女性パイロット、エレーヌ・ブーシェを想起させる冒険心に満ちた女性像をもとに、調香師のジャック・ゲランはアンバーの温かみを感じさせるフローラルでウッディな香りが添えられた、謎めいたシプレーの香りを調香》とある。アンバーもシプレーも意味は分からないけれど、凛として行動的な、大人の女性が纏うにふさわしい香りのように思える。ゲランは、フランスの作家アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリの『夜間飛行』という小説からインスパイアされたという。サン・テグジュペリの代表作は児童文学の『星の王子さま』だが、この『夜間飛行』は、郵便飛行業がまだ危険視されていた草創期に、事業の死活を賭けた夜間飛行に従事する人々を描いた物語だという。なるほど、ゲランが女性パイロットを想定して調香したというのが頷ける。ちなみに、サン・テグジュペリ自身もパイロットだったらしい。
映画『敵』の主人公・渡辺儀助は、フランス近代演劇史を専門とする元大学教授で、彼が時々訪れるバーの名前が「夜間飛行」である。そのバーで、フランス文学を専攻する女子大生と儀助が知り合うというシーンもあり、作品全体にフランスが漂っている。しかし、主人公はフランスかぶれしているわけではなく、祖父の代からの古い日本家屋に住み、朝からご飯を炊き、昼食には蕎麦やお茶漬けを好んで食べるという、ごく普通の日本の高齢男性なのだ。そんな彼の一日のルーティーンを観ているだけでも飽きないこの作品、徐々に恐怖の妄想地獄に落ちていくのだが、観ている私たちも巻き込まれていくのが、さらに恐ろしい……。
そういえば、ちあきなおみさんの楽曲に「夜間飛行」(1973年)というのがあったことを思いだす。懐かしいのでYouTubeで聴いてみたら、間奏にフランス語で女性の声が入っていた。ここにもフランスがあった。つまり「夜間飛行」=フランスなのである。
渡辺儀助、77歳。大学教授の職を辞して10年―妻には先立たれ、祖父の代から続く日本家屋に暮らしている。料理は自分でつくり、晩酌を楽しみ、多くの友人たちとは疎遠になったが、気の置けない僅かな友人と酒を飲み交わし、時には教え子を招いてディナーを振る舞う。預貯金が後何年持つか、すなわち自身が後何年生きられるかを計算しながら、来るべき日に向かって日常は完璧に平和に過ぎていく。遺言書も書いてある。もうやり残したことはない。
だがそんなある日、パソコンの画面に「敵がやって来る」と不穏なメッセージが流れてくる。
原作:筒井康隆 『敵』新潮文庫刊
監督・脚本:吉田大八
出演:長塚京三 瀧内公美 黒沢あすか 河合優実 松尾諭 松尾貴史 中島歩 カトウシンスケ
2023年/日本/108分/配給:ハピネットファントム・スタジオ/ギークピクチュアズ
https://happinet-phantom.com/teki/
1月17日(金)全国公開
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