今週のとっておきの1本は、人生をこじらせたすべての大人たちに捧げるストレンジ・ラブストーリー『マルティネス』。「老い」や「孤独」というテーマを、メキシコ人の女性監督が独自のユーモアで描くダーク・コメディです。

© 2023 Lorena Padilla Bañuelos
【シネマエッセイ】
もう13年前のことになる。夏の真っ盛りだった。大好きな桑田佳祐の2枚組ベストアルバム『I LOVE YOU -now & forever-』の発売日。当時あった大阪丸ビルのタワーレコードにそのアルバムを予約していた私は予約カウンターでCDを受け取り、ウキウキとレジの列に並んだ。ちょうどその時、店内にはその桑田の新アルバム『I LOVE YOU……』の中の1曲♪CAFE BLEU(カフェ・ブリュ)が流れていた。ニマニマと曲に合わせてリズムをとる私。すると、私の前に並んでいた女性が振り向き、「この曲は何ていう曲?」と(たぶん)英語で聞いてきた。小麦色の肌にカーリーな黒髪、年のころは40代か? 私は自分の持っていたそのCDを見せ曲名を指さして教えてあげた。軽いボサノバ調のバラードで、彼女は「いい曲ね」と親指を立てて微笑んだ。それからレジの順番を待つ間に、私は片言英語で彼女と会話した。女性はメキシコ人で、お寺や仏像に興味があり、ひとりで京都や奈良を旅しているという。桑田の曲を気に入ってくれたことが嬉しくて、私は桑田愛、サザン愛をジャスチャー交じりで熱弁し、別れるときにはメールアドレスの交換までしていたのだった。パソコンの翻訳サービスを駆使して数カ月の間はメールのやりとりは続いたが、いつの間にか音信不通になってしまった。今では名前さえも思い出せない。でも、メキシコ……と聞くと、彼女のことを思い出す。お寺や仏像が好きだと言っていたので、もしかしたら今でも時々日本を訪れているかもしれない。
さて、今回の『マルティネス』という映画は、そのメキシコが舞台となっている。メキシコの会計事務所で働く60歳のチリ人男性マルティネスが主人公だ。劇中、一度も歯を見せて笑った顔がなかった思うほど偏屈で几帳面なマルティネスが、孤独死した隣人にほんのり恋をして、孤独な生活からじんわり抜けだしていくというお話である。偏屈で不愛想な彼が、花柄エプロンをつけて料理をするシーンなどが微笑ましくチャーミング。軽い同僚2人とのコントラストも際立っていて、「老い」や「孤独」をテーマにしていても暗くないのがお薦めの理由。

© 2023 Lorena Padilla Bañuelos

© 2023 Lorena Padilla Bañuelos
メキシコで暮らすチリ人のマルティネス。彼は、会計事務所での仕事やプールでの水泳といった日々のルーティンを決して崩さない、偏屈で人間嫌いな60歳の男性。ある日会社から退職をほのめかされ、後任のパブロがやって来る。時を同じくして、アパートの隣人で同年代の女性、アマリアが部屋で孤独死していたことがあきらかになる。アマリアの私物に自分への贈り物が残されていたことを知り、次第に彼女に興味を抱くようになるマルティネス。遺された日記や手紙、写真を通してアマリアヘの思いを募らせていく内に、マルティネスは心の奥底で眠っていた人生への好奇心を取り戻していく。

© 2023 Lorena Padilla Bañuelos

© 2023 Lorena Padilla Bañuelos
監督:ロレーナ・パディージャ
出演:フランシスコ・レジェス、ウンベルト・ブスト、マルタ・クラウディア・モレノ 他
2023年製作/メキシコ /配給・宣伝:カルチュアルライフ
https://culturallife.co.jp/martinez/
8月22日(金)全国順次ロードショー
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