今週のとっておきの1本は、ついつい死について空想・妄想してしまう人付き合いが苦手な女性が主人公の物語『時々、私は考える』という作品。死についてのシュールな妄想や、街の風景の美しさや、静けさ、主人公の気持ちの変化をじっくり捉える描き方が素晴らしいですよ。「スター・ウォーズ」シリーズや「オリエント急行殺人事件」などに出演したデイジー・リドリーが主演&プロデュース。監督は2023年インディワイヤー誌の「注目の女性監督28人」に選出されたレイチェル・ランバート監督。
~シネマエッセイ~
「お部屋にある予備の毛布を持って行ったほうがいいですよ」 女性スタッフのアドバイスに従って、私と友人は毛布を小脇に抱えてホテルを出た。23年前の9月、何度目かのハワイ旅行で初めてマウイ島を訪れた私たち。マウイに行くからには、世界最大の休火山ハレアカラ山頂からのご来光を見たいと、オプショナルツアーの申し込みをしたのだった。あいにく日本人対応ツアーは満席で、仕方なく英語オンリーのツアーに入れてもらった。標高約3,055mということで、日本からはダウンコートも持参していた。午前3時に小型バスでピックアップしてもらい、ドライバーのさっぱりわからない英語の説明を聞きながらハレアカラ山頂を目指す。何度もカーブを曲がり山頂に向かう車窓から見えるのは、漆黒の空にぽっかりと浮かぶ大きな月と、その月明かりに照らされた穏やかな海。まるでラッセンの絵のような神秘的な世界だ。
山頂に着いてバスから降りると、ダウンコートの上に毛布を被っているにもかかわらず、私と友人は思わず「寒―い!」と悲鳴を上げた。日の出前のハレアカラ山頂の気温は0度を下回ることもあるという。しかも立っているがやっとの強風。常夏のハワイでこんな状況に身を置く自分たちが滑稽に思えて、笑いが止まらない。期待していたご来光は想像したほどの迫力は無かったが、やはり地球と太陽の規則正しい営みに感動したのは確かだ。ところがこの後、めくるめく感動が私たちを待っていたのだった。
バスに戻ると、ドライバー席の後ろにコーヒーサーバーとドーナツがセットされていた。先に戻っていたアメリカ人観光客たちが目で合図してくれる。英語オンリーのツアーだから事情がよくわからないけれど、私には「早くお食べ…」と言ってくれているような気がした。戸惑いながら、プラスチックカップにコーヒーを注ぎ入れ、ドーナツを齧ると……なんて、なんて、なんて美味しいのだろう! 熱いブラックコーヒーに、とびっきり甘いシュガードーナツ。冷えた体にジュワジュワとコーヒーの温かさとドーナツの甘さが沁み込み、とろけるような美味しさ! 後にも先にもドーナツを食べてあれほど感動したことはない。23年経った今でも、「ハレアカラと言えば?」「ドーナッツ!」というのが、私と友人の合言葉である。
アメリカ映画『時々、私は考える』のラストシーンにドーナツが登場する。冒頭にも同僚がオフィスのデスクでドーナツを食べる姿がチラッと映る。皆、アメリカ人だからさりげなく食べているけれど、とびっきり甘いに違いない。思わずハレアカラで食べたあのドーナツの甘さが私の舌に甦る……。映画は、仕事中でも家でくつろいでいても、ついつい「自分の死」について空想してしまうユニークな女性の物語。大きな出来事は起きないけれど、ラスト近くに彼女の心の変化をじっくり描くシーンが印象的。タイパ(タイムパフォーマンス)が重視される今の時代に、ゆったり丁寧に作られた作品なのが嬉しい。
人付き合いが苦手で不器用なフランは、会社と自宅を往復するだけの静かで平凡な日々を送っている。友達も恋人もおらず、唯一の楽しみといえば空想にふけること。それもちょっと変わった幻想的な“死”の空想。そんな彼女の生活は、フレンドリーな新しい同僚ロバートとのささやかな交流をきっかけに、ゆっくりときらめき始める。順調にデートを重ねる二人だが、フランの心の足かせは外れないままで——。
出演:デイジー・リドリー、デイヴ・メルヘジ、パーヴェシュ・チーナ、マルシア・デボニス
原題:Sometimes I Think About Dying | 2023 | アメリカ | 英語 | 93 分 | 字幕翻訳 リネハン智子 | G | 配給 樂舎
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公式サイト:https://sometimes-movie.jp/
2024 年 7 月 26 日(金)より 新宿シネマカリテほか全国順次ロードショー
【とっておきシネマ】
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