「水谷幸志のジャズの肖像画よもやま話」では、ハニーFMのフリーペーパー「HONEY」vol.12〜32に掲載されていた水谷さんのコラム「水谷幸志のジャズの肖像画」では書ききれなかったエピソードや時代背景などをゆったりと振り返りながらお送りします(再生ボタン▶を押すと番組が始まります)
今回は、アメリカのジャズヴォーカリスト、アイリーン・クラールを特集した「HONEY vol.23 秋号」を振り返ります。バラード“Never Let Me Go”にまつわるエピソードを交え、アイリーン・クラールの魅力に迫ります。
当時のコラムと合わせてお楽しみください。
「HONEY」vol.23「JAZZの肖像画」
あまり馴染みのないバラード、“Never Let Me Go”を初めて耳にしたのは、確か70年代中頃のジャズ喫茶だったと思う。お皿は、ビル・エヴァンスの『ALONE』。幾重もの淡い陰影に彩られたピアノの音色が、その店の、主のような大きな面構えをしたスピーカーから流れていた。LPのライナー・ノーツには、作者はボタンとリボンやモナ・リザなどで知られる著名な二人の手によることや、50年代の映画で、ナット・キング・コールが歌ってスタンダードになったことなどが書かれていたようだが、よく覚えていない。不思議なのは、この“マイナーな佳曲”が半世紀の時を経た今、再び脚光を浴びていることだ。
ことの始まりは2年ほど前に戻るが、ある買い物の途中、偶然出会った友達から、「カズオ・イシグロの(わたしを離さないで)を、読みました?」。さらに、「“Never Let Me Go”を歌っている、何とかブリッジウォーターとかいう女の歌手ってご存じかしら?」と、あまり期待はしていない口ぶりで尋ねられた。ひょんなことから蘇った、“マイナーな佳曲”。私は、それを歌っている謎の歌手について、多くのアルバムに耳を傾け、さらに、ブッカー賞作家で日系イギリス人のカズオ・イシグロの長編小説を読む羽目になる。先ず、その結論から話そう。小説の歌手は、未だ謎に包まれたままである。
どうも友達の不安は的中したようだ。でも収穫もあった。あの村上春樹氏がイシグロにプレゼントしたCDアルバムの中に“Never Let Me Go”が存在していたこと。その他に、この佳曲、一途な恋の行く末が案じられるブルー・バラードであること。歌詞の内容からも、女性がレパートリーにすることが多く、ダイナ・ワシントンやカーメン・マクレエ、そしてアイリーン・クラールなどが歌っていること。最近ではロンドンを拠点に活躍する、ステイシー・ケントもこのバラードを取り上げていることなど。
これらの、必ずしも多いとは言えない手掛かりから、イングランド南部を舞台に、終始抑制された色調で描かれた小説に、最も相応しい歌声の持ち主を推理してみた。私が最後に行き着いたのは、よく知られた名ではないが、誰もが認める確かな実力と、墨絵のようなバラードを歌うアイリーン・クラールだった。彼女は、自分の好みに合った隠れた佳曲を探しだし、色恋など複雑に絡み合った糸を、優しく、ほぐすように語り掛けることが出来る歌い手である。その彼女が42歳の時に出したバラード集『WHERE IS LOVE?』(邦題:恋の行方)で、歌っている。気心の知れたアラン・ブロードベントの寡黙なピアノを得て、小さな悲鳴を上げるかのように「私を離さないで、私を離さないで~」と、繰り返し歌っている。隅々まで、バラードの品格が漂うこのアルバム、晩年を歌に捧げたアイリーン・クラールの代表作であることに間違いはない。