今週は、2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロが、1982年に王立文学協会賞を受賞した長編小説デビュー作品『遠い山なみの光』をご紹介しましょう。1950年代の戦後間もない長崎と1980年代のイギリスという、時代と場所を超えて交錯する“記憶”の秘密を紐解いていくヒューマンミステリーです。

©2025 A Pale View of HIlls Film Partners
シネマエッセイ
私は小学5年生まで四国・高知で育った。戦後20年が過ぎた頃とはいえ、地方の小さな町ではまだまだ栄養のあるものをお腹一杯に食べられる時代ではなかったから、毎朝、ニワトリが産んでくれる新鮮な卵は数少ない栄養源の一つだったと思う。我が家は農家ではなく、当時の父母は小さな工場で働いていた。住んでいたのは社宅で、もちろん庭もなくニワトリも飼っていない。当然、卵など頻繁に食卓に上がらない。我が家にとって「卵」は「ごちそう」で、私と妹は、毎日卵が食べられる環境に憧れていた。その「ごちそう卵」を食べられる方法が一つだけあった。父母の同僚のIさん夫婦が同じ町内に住んでいて、よく「泊まりにおいで」と声をかけてくれた。その言葉に甘えて、私と妹はそのIさんの家に時々泊まりに行っていた。お楽しみはその家で飼っているニワトリの「卵」だ。泊まった翌朝、目覚めるとすでに食卓には小鉢に入れられた生卵がある。ぷっくりと盛り上がった黄身に醤油を垂らして泡立つほどかき混ぜ、炊き立ての白いご飯に回しかけ、色が薄ければもう少し醤油を垂らす。口に入れると広がる柔らかな味、滑らかな舌ざわり……。今思い出しても至福の味だ。Iさんのご主人は卵の殻を少し割って、ナマでごくごく飲んでいた。それはちょっと強烈な技で、私は真似する気にはなれなかったが……。時が過ぎて、我が家でもお弁当に卵焼きが入れられるようになると、私と妹の「お泊り」は徐々に遠のいていったが、今でも「卵」というとまず思い出すのは、あの「卵かけごはん目当て」のお泊り。美味しかった思い出と、卵目当てのお泊りはあさましかったかな……と、少し恥ずかしい気持ちがない交ぜになったノスタルジーである。
映画『遠い山なみの光』は1950年代初めの長崎が舞台。広瀬すずさん演じる主人公の悦子が、義父に持たせるお弁当に卵焼きを入れるシーンが何度かある。たった1個の卵があんなに魅力的に思えた私の幼少時代と違って、この家はなかなかに裕福なのだな~と感じる。義父は元校長先生、夫もネクタイを締めて出勤するホワイトカラー。しかもバラックなどに住む人も多かったであろう戦後間もないあの時代に、小綺麗な団地に住んでいるのだ。しかし、戦争や原爆、放射能などという言葉が物語の中に時々差し挟まれ、敗戦によりそれまでの価値観がひっくり返った現実も描かれていく。そんな戦後を描きながら、昭和の素朴な風景、優しい長崎弁、対照的な2人の女性、記憶の辻褄……文芸的かつミステリアスな空気感が漂う作品である。

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日本人の母とイギリス人の父を持つニキ。大学を中退して作家を目指す彼女は、長崎で原爆を経験し戦後イギリスへ渡り、苦楽を共にした長女を亡くした母の悦子の半生を作品にしたいと考える。次女に乞われ、ずっと口を閉ざしてきた過去の記憶を語り始める悦子。それは、戦後間もない長崎で出会った、佐知子という女性とその幼い娘と過ごしたひと夏の思い出だった。だが、ニキは次第にその物語の食い違いに気づき始め――。

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監督・脚本:石川慶
原作:カズオ・イシグロ
出演:広瀬すず 二階堂ふ 吉田 羊 カミラ アイコ 柴田理恵 渡辺大知 鈴木碧桜 松下洸平 三浦友和
2025年/日本・イギリス・ポーランド/123分/配給:ギャガ
https://gaga.ne.jp/yamanami/
9月5日(金)全国公開
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